「石/そのもの/そのまま」
正直者の会の戯声のモチーフは公演の度に毎度「あーでもないこーでもない」と頭を悩ますのですが、今回の「石」はすごくあっさり決まりました。
子供の頃、ママゴトでお皿になり食事になり、また飛行機になったり、家になったりした、あの石です。「石」は、僕らの遊びのいわば「スタートボタン」でした。
ローセキ(「蝋石」です。もうご存じない人も多いのでしょうね)でまずアスファルトの地面に線を書きましょう。その線は境界線です。土の地面に線を引くのも石ですね。と、するとまずは石は「ペン、筆記具」であったのです。僕たちはそのペンで「双六のコース」をかいたり、ドッチボールのコートを書いたりしました。更に石はコマになり、またボールになり、拳銃にもなりました。まるでトランプのジョーカーみたいに、それは何にでも変身しました。それは「僕」にもなりました。お母さん、お父さんにも。「僕の石」は「石の僕」でもあったのです。子供の世界の「の」という助詞は、まずは「所有」の「の」ではなく「同格」であったろうということです。「金の延べ棒」の「の」ですね。そして「同格」と「所有」が溶けて癒着している世界こそ「子供達に見えている世界」「子供達が生きている世界」だろうと思うのです。と、この辺り事情は過去に書いたブログの記事
をお読みいただけるとありがたいです。
その「子供達が生きている世界」に対しての憧れがどうしても捨てられないのです。だって娘を見てるとすごくいきいきしているのですもの(笑)
その世界はおそらく「文脈」や「全体性(構造)」の多くが失われた世界です。だから、とっても面倒くさい。どういうことかと言うと……
(これもいつかのブログに書いた気がしますが)何匹かのお猿さんたちの顔の画像を、新生児とか一歳児とかにみせると、その一匹一匹を識別するらしいのですね。実験の仕方としては、一つの画面を左右に分割して左右に一匹ずつ、計二匹のお猿さんの顔を次々に映していくんですって。紙芝居みたいに何枚かスライドしてゆき、被験者の目線が左右どちらに長い時間留まっていたのか?を記録してく。というものだったと記憶しています。そうすると、赤ちゃんは「それまでに見たことのある(既出の)」お猿さんの顔が、出た時には、そっちの方を、よりじっくり見てるんだそうです。説明が下手でごめんなさいね。つまり赤ん坊にとっては「あ、さっきの人(猿)や!』という感じなのでしょうね。見覚えがあるから、そっちの方を見る。この実験を大人ですると、全くそう言う偏りが現れなかったと。それはそうだろうと思うのですね。だって僕にとったらお猿はお猿でその一匹一匹を見分けられるか?というとまず無理だろうと思うからです。そう。お猿一匹一匹を認識するのはとても時間、労力のかかることですよね。僕たちは成長(?)していく中で、(それよりもしなくちゃいけないことがあるので)その手間を省く為に「お猿さん」というカテゴリーを採用しました。その結果僕たちはお猿さん一匹一匹の顔を見分けることができなくなった。(もちろん動物園で働いてらっしゃる方や、何匹もの犬と生活してらっしゃる方の事情は違いますが)赤ん坊にとっては「お猿A」と「お猿B」と「犬のタロウ」と「おばさんからかかって来た電話」と「冬の寒さ」が同平面に、平たく並んでいて、それをいちいち全部味わって確かめて…。そんな風に世界と接しているんだろうと思うのです。
お猿さんの顔が一匹一匹違うのは当たり前です。串に刺さったお団子は、カレーライスよりも、「泥だんご」とか、あるいは(色目でいうなら)信号機の方が似ているかもしれません。でも僕たちは「食べ物」と「食べられないもの」というカテゴライズを優先的に採用して来ました。(それは生き死にに関わりますからね)
一つ一つは「そのもの」であり、「そのもの性」を持っています。しかしそれをいちいち端から端まで吟味して味わって、つまり感じてしまっていると、「時間がかかる」「面倒くさい」→作業が進みません。だから「夕日の色」や「赤信号の色」や「血の色」なんかを「赤」という括りでまとめることで、僕たちは情報処理作業を軽減して来ました。
そしてある時ふと「あれ?」と思うのです。ゲシュタルト崩壊と呼ばれる現象がそれです。
「鏡を見ていて、自分の眉毛がどうにも変に思える」
「天気のいい日にベランダで本を読んでると、印刷された文字の「は」という平仮名が、どうも変に思える」
「毎日の通学路が、妙に輝いて見える」
とかとか。
「僕たちが普段感受している世界」に、僕らが知らずにかけている「文脈」や「全体性」を取っ払ってやりたいのです。
「ありのままの、面倒くさい世界の有り様」を感じたい。それは僕にとってとても気持ちのいい体験なのです。このことを僕はよく「空間が歪む」という言い方で表現します。が、実のところこれは逆で処理速度をあげる為に歪ませていた空間がその「ありのまま」に戻るということなのかもしれません…。(このことを考えるにはインターネットの世界のhtmlとcssというものがとても参考になります。これも過去のブログに書いているので、ぜひご一読ください。)
ちょうど子供の頃に石を使って遊んだように、僕たちも「石」というモチーフを「転がしたり」「積み重ねたり」「何かに見立てたり」「投げたり」「それで地面に線を書いたり」してみようと思います。「石」というモチーフを扱ってパフォーマンスをしていると、実感として「正しく遊んでいるな」という気がしてくるのです。子供の頃のように、持ちえる最大限の想像力を使って、目の前にただある世界に刮目すれば、それは実に実にカラフルにダンサブルに動き出す。そんなことが素晴らしいと思うから演劇を続けているし、その演劇の中で仮に「観客に伝えたいこと」があるとするならば、それ以外にはあり得ないと。つまり、
「目を見開いて周りを見てみな。耳をすまして聞いてみな。それだけで世界はバカみたいに、色鮮やかに動き出すから。そう。子供の頃そうだったみたいに」
特別な装置も思想も、正直者の会には必要がありません。あってもいいのでしょうが、もう既にお腹がいっぱいなのです。この世界に。石ころに。