以下はいくつかの資料を分析した上での仮説です。
まず「演劇」は大きく分けて二つの要素から成り立っています。それは「クロ」と「ス」です。そしてこの二つの要素を繋ぐもの、或いは逆に分け隔てるものとして「フロセ」また「オケ」と呼ばれる第三の存在があります。この三つの要素が「演劇」の基本となっていたのではないかと私たちは考えています。
「クロ」は「黒、玄、畔」の意、それが転じたものだと思われますが、資料によっては「フロ」とも表記があります。
「ス」は「スウ」「シュウ」とも言い「素」「数」「衆」の意、それが転じたものでしょう。「クロ、フロ」と「ス、シュウ」は対称の関係にあり、黒色と白色で表現されることがもっとも一般的な形です。<単一/複数><中心/周縁><男/女><善/悪><現世/あの世><昼/夜>というようなプリミティブな二項対立を表象していると考えられます。そのような概念としての「クロ」や「ス」を「演劇」において具体化した〈物〉もまた同じく「クロ」「フロ」、「ス」「シュウ」と呼ばれ表記されているためこの二者は非常に曖昧模糊としています。
その二者の境界、あるいは通路、回路としてある「フロセ」「オケ」は比較的具体的にその形が判明してきました。「フロセ」と「オケ」は同じものの別名ではなく、それぞれ違うものを指していると思われます。
「オケ」には「イケ」あるいは「オケチ」という表記も見られます。「桶」すなわち水を張るもの。池や沼。あるいは川などの場所がそうです。もしくは単にそういう水が溜まりうる凹み、くぼみのことを指しているのかもしれません。「クロ」と「ス」の境界線と考えると、深く掘った溝、堀のようなものとも考えられます。
「フロセ」は「フロ」を「背」にする。つまり「ス」から見て「フロ」「クロ」の前にあるものといった意味でしょう。様々バリエーションはありますが基本的にアーチ状、ゲート状のものです。神社の鳥居やトンネル。玄関のドアや或いは写真の額縁といったものが「フロセ」となります。この「フロセ」「オケ」はどちらか片方であることもありますが、いずれにせよその存在は「演劇」にとって極めて重要です。「フロセ」「オケ」が存在する。その時に初めて「こちら側」と「向こう側」が生起し「クロ」と「ス」が生起する。「クロ」と「ス」が極めて曖昧で概念的であることからも、この「フロセ」「オケ」が「演劇」のいわばメディア。媒体、依り代として決定的な存在であると言えると思います。映画のスクリーンを思い浮かべてください。光が投影されても、そこにスクリーンがなければ私たちはそれを見ることができません。「フロセ」「オケ」が演劇とってのスクリーンです。しかしまさにこのことによって「クロ」と「ス」は絶対的な関係に置かれます。ちょうど映画を見ていて私たちがその中の世界に入ってはいけないように、「フロセ」と「オケ」は「クロ」と「ス」を分かつ絶対的な障壁でもあります。さらに例えるなら「プロセ」「オケ」というコインがあり、その表が「クロ」で裏が「ス」であると言えるでしょう。
「クロ」と「ス」について全く具体的なことがわからないのか?というとそうではありません。両者とも共通の、構成する要素というものが様々な資料から明らかになってきています。主だった三つのケースをあげますと「人」「カキワリ」「ハコ」であります。まず第一に「人」。これは「クロ」「フロ」と呼ばれる人。や人々がおり、「フロセ」や「オケ」…例えば川を挟んだ反対側で「ス」「シュウ」と呼ばれる人々がいる。というようなケースです。次に「カキワリ」と呼ばれるもの。これは紙や板など、平面状の何かに、絵や文字が書かれたものです。人の場合と同じように、例えば玄関の外側に真っ黒に塗られた紙が一枚あり、内側に白紙の紙がたくさんある、というような状況。「ハコ」は「カキワリ」の平面を組み合わせた立方体です。人やカキワリと同じように「中身が詰まったハコ」と「空のハコ」が対置されることもあります。また「クロ」はこの「ハコ」の中の暗闇のことを指すのではないかという説や、「演劇」自体が行なわれた施設のことを「ハコ」と呼んだのではないか?という説もあります。「演劇」というものの姿が今日ここまではっきりしないのは、このような「ハコ」と呼ばれる密室でごく一部の人たちによって秘密裏に行われ、また密かに伝えられていったからではないか?とも考えられますが、一方で「野外で大々的に行われた」「近隣の町、村にまで広く喧伝された」という証言もあります。いずれにせよ「人」「カキワリ(平面)」「ハコ(立方体)」が具体的な要素、道具として使われていただろうということは確かだと思います。先に述べました「フロセ」「オケ」。そしてとこの「人」「カキワリ」「ハコ」。これらが、杳として知れない演劇の実相に我々が迫るための数少ない、しかし確かな手がかりです。