ポイント

戯声ゲームをする時に心がけたい点を大きく3点あげます。

「受ける事」

「声である事」

「戯れる事」

です。

この頁の全ての写真撮影:西岡真一

受ける 受ける

相手の声を「受ける」という事が「戯声」の基幹です。後にも書いていますが、つまりこの「受ける」をいかに「戯れ」られるか?というのが楽しさを左右するポイントになります。「受ける」には「順接」も「逆接」も含まれます。もっと言えば「無視する」ことも含まれるのです。何度かやって行くと「受け方」のバリエーションがドンドンと増えて来るでしょう。それこそ無限にある「受け方」のどれを使って、次はどれで、その次は・・。「受け方」が、なるべくワンパターンにならないように。その選択の仕方、並び方が気持ちのいい揺らぎをもつような、つまりは「戯れる」ことが「戯声」のコツだと思います。

「受け方」は経験的に言うとやはり「順接」を基本とした方がゲームがスムーズに進みます。「逆接」「無視する」というのはアクセントとしてとても劇的に機能します。でもアクセントが多すぎるとやはりスムーズには進まずぎくしゃくしてきます。まずは「順接」を心がけた方が良いと思います。

そして「順接」にもいろんな「順接」があります。「おうむ返し」してみることや、「相手の言葉に続けて文章にしてゆく」というのはとてもプレーンな順接のあり方です。でもそれを少しひねったりねじったりするさまざまな受け方があり、またそうやって少しずつねじれて行く世界を、二人が言葉を交換して行く中で進めて行くのがこのゲームの魅力です。何かしらの「変換」「ずらし」をしながら進めてゆけるとよいでしょう。「しりとり」「連想」「一文字変える」といった、音を受けてひねって返す方法や、「翻訳する」「言い換える」「擬音にしてみる」「主語をかえる」「時間を進める、戻す、引き延ばす、止める」「視点を変える」とか。発想を柔軟に相手の声を受けてみてください。

声である 声である

二人で(あるいはもっとたくさんの人数で)「声を交換していく」ということも重要です。相手の声をきちんとインプットして、そのリアクションとして出される声。それがまた新しい声を生んで・・・。そのような態度が戯声の基本姿勢として求められます。なぜならそのような「生身の体の反応」としての声(≠台詞)が基礎となって初めて、「実際のその二人がいる空間(劇場、現実)」と距離をとる事も寄り添う事も出来るからです。「今、この場所にある体と声」がなければ「今ではないいつか」、「ここではない場所」「の誰かの言葉」というものたちは、どこにも規定されずに空間の中で宙ぶらりんのまんまです。それとの距離を測る原点も、形、大きさを比較する対象もないのですから。

別にそれでもいいのです。が、私はできれば、その「ないもの」に対しても何らかの手触りを与えてみたいと思うのです。「夢の中で感じるリアリティー」のように。

「今この空間にある私の体と声。私たちの関係」を基本にすることによって、それが原点、比較対象となり、「うそっぱち」「虚構」「思い出」「物語」はある座標の中で位置づけられ、ある立体感、手触りをもって私たちの前に立ち上ってきます。これは「戯声」の大きな特徴で又醍醐味でもあります。

戯声は声を戯れさせるゲームです。言葉が戯れると「戯言(たわごと)」ですね。(実際正直者の会の台本を見てみると見事に「戯言」です)そうなのです。その場の人々の口から発されるが「(声ではなくて)言葉」「台詞」である事はあるスパイスになったりもしますが、「言葉」「台詞」であり続けてしまうと、それは戯言にしかならない。戯声ゲームの持つダイナミックな魅力にはたどり着けないでしょう。ではその「ダイナミックな魅力」とはどう言った物でしょうかしら?

戯れる 戯れる

「戯れる」というのは「無規則」ということに近いですよね。「こうしなくちゃいけない」とか「これまでこうして来た」などから自由になる事。子どもの遊びとか落書きとか。ただここで注意しなければならないのは

「規則」と「無規則」を対立するものだと考えない。

ということです。
「無規則」は「規則」に対置してしまうと、すぐに無規則でなくなりますよね。規則がしっかりとした一本の柱だとすれば、「必ず『規則』には踏み入れないもの。」「必ず規則と反対側にあるもの」として無規則もまた規則づけられるからです。ではどうするか?「無規則」が無規則である為に、「戯れ」はある程度「規則」に則らなくてはならないという事なのです。「戯声」で言えばその規則とは

「単語」
「日本語の文法(人称、時節?)」
「音程」
「感情」

などです。「戯言」がいやだと言っても言葉と仲良くすることは勿論重要なことのです。只々でたらめに音を並べて「アマレコキレキユバ・・・」とでたらめな声を出していてもつまらないですから。
また戯声ゲームは二人以上で行いますから、以下のような規則も現れます。

「関係」「会話」

これは「俳優の技術」というものがかなり必要になってきます。二人がいつまでたっても全然噛み合ない事を言っててもつまらない。
そしてもともと「体」と「声」には深い関係、規則があります。イスに座っている人が「私は立っている」というと、その時の「私」は少なくとも、その今イスに座っている人ではなくなる訳ですから、「私」が過去や未来にとんだり、他人に引っ越したりする訳ですが、「今、座っていること」に意味を持たそうとすると、ずっとそればっかりじゃつまらない訳です。

「戯れる」とは「無規則」であること。でもそれは、規則と対置される物ではなくて、規則についたり離れたり、巻き付いたりそっぽむいたりする物です。言い方を変えると「無規則」であるためには「規則に乗っ取らない」ことではなくて、「規則」とは「又違う(新しい)規則」で振る舞わなければならないと言う事なのです。
子どもを見ていてつくづくそれは思います。本当に突拍子もないこと、脈絡のないことを子どもは話たり、やったりしますよね。親である僕にも、「なんでそうなるの?」とおどろくことばかり。でもおどろきながらもはっきりと「この子の中には、この子にだけわかる「脈略」「流れ」「切実」「必然」があって、それに従っておるのだなぁ」と感じるのです。それがどういう「ルール」なのか、その内容はわかりません。でも確かに何かの脈略があると感じる。それこそが「戯れ」のもつ「愉快さ」「痛快さ」のオオモトではないだろうか?と思うのです。

「規則」と「無規則」の間を横断する、「又違う(新しい)規則」
それが「戯れ」の肝だとして、じゃあいったいそれはどんなものでしょうか?先にあげた

A 「声、言葉にまつわる沢山の規則(「単語」「日本語の文法(人称、時節?)」「音程」「感情」「関係」「会話」「体と声」等)」

B それらを逸脱する事(規則に対置した無規則)

 の間を縦横無尽に行き来する。そのルート(規則)を作る。先に書いた「ダイナミックな魅力」というのはこのルート(規則)のダイナミックさということです。例えば二人でする戯声ゲームであれば、

・その二人の「関係」が「親子」で始まり、「同一人物」に変化し、「ある世界を外から語る人」と「その世界の中の人」へとつながり、また「同一空間には居ない」「関係を持たない」二人へ変容してくようなこと。

・「言葉」が「音」に分解されて、また違う「言葉」に再結合していくようなこと。台詞が環境音になり歌になりお経へと変わって行くようなこと。

・ 「しりとり」が「連想ゲーム」に変わり「一つの文章をわけて交互に言っている」を経て「会話」→「おうむ返し」→「通訳」→「エコー」→「コーラス」→「コーラス隊の二人の日常の一コマ」へと繋がるようなこと。

これは例ですが、このような様々なラインを乗り換え乗り換えしてながら声を出して紡いで行く作業が「戯れる声」=「戯声」です。
そこでは沢山の「言葉」「イメージ」が生まれては消えて行くでしょう。「言葉」と「言葉が指し示している物、景色」。「その言葉を言っている人物、と「その人物の居る所、世界」。そして実際にその二人が居る空間とが共鳴すると、実に「夢のような」時間がそこに流れるのです。
本当です。

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